Moran 2007

  • Dermot Moran, "Fink's Speculative Phenomenology: Between Construction and Transcendence," 2007.

Bruzina本の書評といって差し支えない内容。この本の重要性を評価しつつも、辛辣なコメントが随所で挿入される。たとえば、これ:

There is no doubt that Bruzina's book is an original work of phenomenology. It breaks new ground in its detailed understanding of Fink's development. But it is also the work of a true believer. Bruzina works with an implicit hermeneutical assumption that both Husserl and Fink were progressing intellectually to ever deepening insights. But sometimes we can go badly astray with that kind of assumption. It is also possible to hold that, after a late blooming in the years from 1929 to 1935, Husserl's thought went into decline and that many of his later ideas are quite daft to and that Fink was worse encourage him in that speculative direction. (p. 30)

概ね同意できる。

Bruzina 2004

  • Ronald Bruzina Edmund Husserl and Eugen Fink. Beginnings and Ends in Phenomenology 1928-1938, 2004, chs. 1-2.

今月末からの集中講義のために読み始める。フッサール晩年におけるフィンクとの共同作業の経緯を追った第一章がかなり良い。『存在と時間』公刊(1927年)以降ドイツ哲学界におけるハイデガーの存在感が増大していくなかで、当時のフッサールがどのように危機感を募らせていたのかが伺われる。20年代のフッサールの思想の発展に関するDon Weltonの仕事と並んで、後期フッサールに関する今後の研究における基礎的な資料の一つだと思う*1

しかし個人的には、フィンクとの出会いはフッサールにとってかならずしも幸福なことではないのではないかとも思えて仕方がない。第二章を導くフィンクの問題意識(純粋意識ないし超越論的主観性の存在論的身分が明らかにされなければいけない)には共感するのだけど、そこで「脱人間化 Entmenschung」というよく分からないけど凄そうな言葉を鍵にして反省論を始めてしまう発想にはやはりついていけない。フッサール現象学を(当時の)心理学に属する用語法(意識とか作用とか)で展開したということに異存はない。けれども、そうした語法の選択は果たして適切であったのかということをここで問題にすべきだったのではないか。

*1:個人的には、こうした新しい成果を踏まえてその上になにかを積み重ねるという作業をしないフッサール研究が今後出てきても、あまり読みたくない。

Husserl, Hua XXVI, Beilage XIX

  • Edmund Husserl, "Das Problem der Idealität der Bedeutung," 1911.

ちょっと前に読み終わる。心的内容の個別化に関する内在主義に対して、パトナムの双子地球論法のさきがけと言えなくもない論法*1で批判を加え、内在主義的な立場を要請するスペチエス説をそれによって退けながらも、そのまま外在主義に与することはせず、内在主義と外在主義の中間地点(Beyerによれば、「対象依存なしの外在主義」)への着地を試みてふらふらする草稿。問題は、ここで確定した立場が表明されているのかどうかということ。後年の欄外書き込みには、この草稿の胆になる主張に対して「これは間違っている」という指摘がなされ、意味の同一性に関して何やら謎めいた覚書らしきものが残されている。もう忘れてしまいたいあの修論では、この覚え書きの内容がどのようなものであるのかを『イデーンI』に即して示そうとして、大失敗したのだった。この辺りの話題にそろそろ再挑戦してみてもいいような気もする。

*1:意外なことに、英語版wikipediaの双子地球の項目がこのことに触れている。http://en.wikipedia.org/wiki/Twin_Earth_thought_experiment

Husserl, Hua XXVI, Beilage XVIII

  • Edmund Husserl, "Das Urteil und die Urteilsidee," 1910.

1910年秋に執筆された草稿。修論を書いていたときは、この草稿でもフッサールは命題のスペチエス説に舞い戻ってしまうと見なしていたが、これは完全な誤読だった。フッサールはすでにスペチエス説をほぼ克服している。

Husserl, Hua XXVI, Beilage XVII

  • Edmund Husserl, "Das Urteil im Unterschied zum Urteilen" (15.9.1910)

1910年9月15日に執筆された草稿。『論研』で提唱された命題のスペチエス説にあの手この手で反論を加えつつも、結局そこに戻っていってしまうふらふらした草稿。この頃までのフッサールは、文の意味を(その真偽に関する態度決定なしに)単に理解することを想像的な判断と性急に同一視しようとしていて、そのためにスペチエス説から手を切れずにいる。こうした問題がそれ以前のテクストよりも明確に現われていて、フッサールが迷走しつつも徐々に前進していたことを伺わせる。問題の同一視に潜む問題に気付く1911年3月の草稿まであと半年。

Husserl, Hua XXVI, Beilage XIII-XVI

  • Edmund Husserl, "1) Erscheinung, 2) Sinn, 3) Bedeutung=gegenständliche Beziehung," wohl 1909.
  • Edmund Husserl,"Ontische Bedeutung in der Sphäre der Wahrnehmungen und der schlichten Anschauungen," 1908.
  • Edmund Husserl, "Die Möglichkeit der Scheidung der Urteilsklassen innerhalb der Bedeutungslehre," wohl 1907/08.
  • Edmund Husserl, "Wesenslehre der Urteile," 1908.

引き続きフッサールの草稿の訳出。思考と(感性的)直観の類比性という(ブレンターノ譲りの)想定が背後にあるとおぼしき1909年の草稿は、『イデーンI』でなされているような「(言表判断の)意味 Bedeutung」と「(知覚)意味 Sinn」の区別が導入され、しかもそれらがどのように関係しているのかについての壮絶に細かく読みにくい話が延々続けられる重要なもの。言語の意味に関する心理主義的な見解を退けるさいに意味を無時間的で抽象的な存在者(「イデア的対象」)として導入してしまったせいで、知覚によって確証されるような経験的言明の意味を扱う際にフッサールは大変な苦労をしている。それに加え、「一般的にいって、文の意味を理解することはその文が真ないし偽であることを把握することから独立している」というそれはそれで間違いではない事柄に、フッサールは強すぎる解釈(「文の意味についての分析は、その文の真偽(の確証)の分析と独立である」)を与えてしまっている*1。そのためフッサールは、文の意味と真理条件が深い関係にあるという(今となっては当たり前の)ことをちゃんと自覚する*2までに、結構な紆余曲折を経ることになる。1908-10年あたりのフッサールの意味に関する草稿がかなり読みにくいのは、おそらくこうした事情に起因している。フッサールの草稿の読みにくさを改善することはもちろんできないけど、なぜそれが読みにくいのかについては多くの場合きちんとした理由がある

*1:こうした考えは、今回読んだ三番目と四番目の草稿に見てとることができる。

*2:もちろん、こうした考えを『論研』から引き出すことは一方でできるのだけど。

Husserl, Hua XXVI, Beilage XII

  • Edmund Husserl, "Sachverhalt---Sachlage---Propositionale," 1908(?).

もろもろの業務がようやく終わったので、1908年のものとされる草稿を全訳しつつ読む。たとえば「a>b」・「b*1は何かという話から始まって、確定記述の用法の区別に酷似した話*2だとか、指示の因果説一歩手前みたいな話*3だとか、この時期のフッサールが言語哲学的問題に取り組む姿勢の本気具合を示唆する箇所が含まれている。が、分かりにくすぎる。フッサールの草稿ばかり読んでいると頭がおかしくなりそうなので他のものを読んでバランスをとりたいのだけど、そうも行かない事情がある。

*1:フッサール用語だと「事況Sachlage」なのだけど、じつはこれは非常にややこしい使われ方がされている。

*2:たしかChristian Beyerは、この草稿を根拠にしてフッサールにこの区別を帰属させていたはず。

*3:たしかDon Weltonがフッサールと指示の因果説みたいな話をしていたが、この草稿はその根拠の一つなのかもしれない。