読み散らかし
- Iso Kern, Husserl und Kant, 1964.
- Rebecca Paimann, Formale Strukturen der Subjektivität, 2002
- A. D. Smith, Husserl and the Cartesian Meditations, 2003.
年度の頭は細切れにしか時間が取れないので、自分の研究は目下棚上げ中。例の書類を書かなければいけない。上の三冊はその一環として読み散らかしたもの。最初の二つはどちらもフッサールとカントに関するもの。超越論的感性論の箇所を中心に事実関係を再確認する。Smithのは『デカルト的省察』のコメンタリー。第五省察に入る前におかれた"Husserl's Metaphysics"という節がすばらしい。フッサールにとってわれわれの経験の構造の分析というのは、どう考えても手段であって目的ではないよなあ。
さらに読み散らかし
- Mary Harnett, "The Aproach to the Problem of God in Husserl's Thinking," 2000.
Smith本の形而上学の箇所を読んでいると、やはり神の位置づけが気になるので、ちょっと前にダウンロードしていた論文を読む。私見では、神についてのフッサールの見解というのは、実践理性の要請に関するカントの議論を踏まえて論じられるべきだと思うのだけど、そうした話がすっぽりと抜け落ちてしまっていて残念。満たされなかった期待を満たすために、
- Sebastian Luft, "From Being to Givenness and Back: Some Remarks on the Meaning of Transcendental Idealism in Kant and Husserl," 2007.
をざっと再読。これはほんとにいい論文。ついに研究計画の中に後期フッサールが本格的に登場するところまで来れた。卒論の作業開始(四年生の春)から数えると丸六年か。感慨深い。
Husserl, Hua. Mat. II
- Edmund Husserl, Logik. Vorlesung 1902/03, Kluwer 2001.
某論文の準備も再始動させるべく、とりあえず実践的学科としての論理学に関する調べものから始める。(少なくとも『論研』やこの時期の)フッサールは、理論学としての論理学の基礎にとってわれわれの体験の分析はまったく不要だと考えていることは重要だと思う。体験の分析(つまり現象学)が必要とされる文脈は、論理法則がわれわれの思考(これは紛れもなくわれわれの体験の一種だ)にとっての規範としても機能するのはなぜかということが問題にされる地点でしかない。したがって、「(純粋)論理学の現象学的基礎づけ(を通じた学問一般の現象学的基礎づけ)」と呼んでもいいかもしれないフッサールのプログラムとは、ようするに、われわれの思考とは無関係に成り立っている論理法則が同時にわれわれの思考の規範でもあるということを理解可能にする試みのことだ。もしこうした理解が正しいならば、これよりも大きな(あるいは無茶な)プログラムをフッサールに帰属させたうえで、それに肩入れしたりそれを絶望視したりすることは根本的に明後日の方向を向いていることになると思うのだけど。といろいろ考えたいことはあるのだけど、その辺は目下の計画の中で突っ込んでいくべき話題ではないので深入りはやめておく。主要な論点が『論研』とおおむね変わっていないことを確認できたことだけで十分。実践的学科としての論理学に関する文献としては、あとはBernetの論文を読み直しながら『論研』第一巻の該当箇所を押さえておけばよさそう。
Husserl, Hua. XXVI
ここ数日かけて、
- Edmund Husserl Vorlesungen über Bedeutungslehre, Beilage I-IV.
を訳しながら読む。あらためて丁寧に検討してみると、命題と事態の身分をめぐってフッサールがいろいろ悩んでいるのがよく分かって面白い。命題を事態と同一視する作戦と、「成立していない事態」を持ち出さずに偽の(あるいは「存在しない対象」についての)命題を処理したい(つまり、成立している事態だけを認めたい)という考えのあいだを行ったり来たり。こうした問題をめぐる逡巡の痕跡は、『イデーンI』にはあまり見つからないのだけど、『経験と判断』にはいろいろ転がっていると思う。