第二章

博論を書くために何を調べたかだけでなく、実際に何をどれくらい書いたのかについても記録すればいいのに、という要望がとある方面から寄せられた。というわけで、大雑把ではあるが、ここ最近の流れを記してみる。
現在中心的に取り組んでいるのは、『論理学研究』初版(1900/01)の時期*1フッサールについて扱う第一部で、『論研』以前・『論研』・『論研』以後をそれぞれ扱う三章構成にする予定で作業を進めている。まず第一章で『論研』前夜のフッサールがどのような問題に直面していたのかを明らかにし、第二章で『論研』をこの問題に対する最初の包括的な回答の試みという観点から読み解き、第三章で『論研』の立場を明確化する一方で、フッサールが同書の問題設定を越え出ていこうとする過程を扱う(予定)。
こうした構成からも分かるように、第一部は、フッサールの思想の発展の最初の段階を時系列に沿って追う傍らで、博論全体を通じて問題になることを導入する役割も担っている。ところが、実際に作業をはじめてすぐに分かったのだが、この二つ目標を同時に過不足なく満たした論述を組み立てるのはけっこう難しい。年代記形式を取ると、たとえば『論研』と1902/03年講義の細かい違いをちまちまと指摘しているうちにポイントのないつまらない話を延々と続けてしまう、という危険がつねに付きまとう。フッサールの問題意識をはっきりさせるためには、この時期のテクストをもっと自由に使って体系的観点から描いた方がずっと分かりやすい(し、面白い)。だが、年ごとの細かい違いのうちのいくつかは非常に重要であり、そうした重要な違いの指摘を積み重ねることによってフッサールのいわゆる「超越論的転回」を(ある時点における劇的な)転回というよりももっと連続的な過程として描くことが博論の最大の売り(になるはず)なので、年代記形式を完全に捨て去ることはできない。

こうした事情のおかげで作業がかなり難航したのだけど、ここに来てようやく使い物になる第二章のアウトラインを作ることができた。こんな感じ。

それ以前のテクストには見られない命題のスペチエス*2の導入が、フッサール心理主義批判をどのように変化させたということを、『論研』第一巻を通じて確認し、第二巻での議論は第一巻の心理主義批判を補完するものでもあることを明らかにする(第一節)。次に、このような観点から『論研』第二巻への序論を(かなり丁寧に)読み(第二節)、それを踏まえて六つの研究が一つの体系的な観点のもとで書かれていることを明らかにする(第三節と第四節)。このときポイントになるのは、『論研』第二巻の副題(「認識の現象学と認識論についての諸研究」)が「認識の現象学」と「認識論」をわざわざ分けているのはなぜかという問題である。こうした区別にはきちんとした理由があるということが、認識の現象学を扱う第三節と認識論を扱う第四節で明らかにされる。

今後は、『論研』と関連二次文献を調べつつこのアウトラインに肉付けをし、その結果に応じてアウトラインそのものを調整するという作業に入る予定。これをしばらく繰り返していれば、第二章の初稿ができるはず。

*1:具体的には、 1894年から1904年にかけての時期。より具体的には、1894年の「志向的対象」草稿、1896年論理学講義、1898/99年の「認識論と、形而上学の主要点」講義、『論研』初版、1901/02年の「認識論と論理学」講義、1902/03年の一般的認識論講義および論理学講義、1903年に公刊された「パラージ書評」、1903/04年に公刊された「1895年から1899年におけるドイツ語の論理学文献に関する報告」(とくにエルゼンハンスについての部分)を扱う。フッサール以外の一次資料は、ボルツァーノの『学問論』、ブレンターノの『経験的立場からの心理学』、トヴァルドフスキの『表象の内容と対象』、シュトゥンプフの「心理学と認識論」。

*2:命題とそれを内容として持つ(心的)作用の関係は、赤いという性質(「スペチエス」)と赤い対象の関係に等しい、という説。)