Ryckman 2007
- Thomas Ryckman, "Carnap and Husserl," 2007.
次の課題に向けた準備運動として読む。Ryckmanは、フッサールの超越論的観念論を形而上学的に中立的な立場として解釈し、Aufbauのカルナップ*1と(重大な相違*2があるにもかかわらず)問題意識を共有していると考えている。問題意識の共有については異論はあまりない。フッサールの超越論的観念論とカルナップのKonstututionsystemを付き合わせて検討することは、体系的観点からも歴史的観点からもきわめて興味深い*3。けれども、Ryckmanのように、フェレスダール流のノエマ解釈に強く依拠してフッサールを理解してしまうと、こうした作業をより興味深いものにしているポイントが見えなくなってしまうのではないだろうか。フェレスダールの解釈にしたがえば、フッサールは『イデーンI』以降も意味と対象の水準を数的に区別している。すると、現象学はもっぱら意味の水準に関わるのであって、対象の水準がどうなっているかとは無関係に話が進む、という具合にフッサールの主張を読むことができる。フッサールが形而上学に関して、Aufbauのカルナップと大筋で戦略を共有しているという見解までは、ここからあと一歩だ。しかし実際のところ、フッサールは自身の超越論的観念論を、真性の形而上学を可能にするものと見なしている。そのかぎりで、フッサールの超越論的観念論は形而上学的な含意を持ち、中立的ではありえない。観点の取り方によってはAufbauそっくりにも見えなくもない戦略をとっているフッサールが、超越論的現象学を、形而上学の拒否どころか、それを擁護するための唯一可能な選択肢と見なしていたこと、このことこそが、「フッサールとカルナップ」という主題を考えるさいに念頭に置かれるべき、微妙な問題ではないかと思う。