Husserl, Hua. XXXVI

  • Edmund Husserl Transzendentaler Idealismus, Nr. 7.

1914年か15年の草稿。前半部分を読む。6番までのテクストとは違って、世界内に身体を持つ主観の役割が強調されはじめるのだけど、現実世界の構成分析において身体を持った主観が欠かせないという結論をそのまま可能世界一般に敷衍して、その結果、すべての可能世界に身体を持った主観性の余地を認めるという変な主張に至っている。この結論の奇妙さに時折疑念が差し挟まれるものの、結局のところそれで押し切りそうな雰囲気(なんだけど、まだ後半を読んでいないし、前半もかなり密度の濃い草稿なのでじっくり検討してみないとなんとも言えない)。超越論的事実性をめぐる問題の前景化はまだもう少し先、ということか。それにしてもあらためて思うのは、この辺の胡散臭げに見える話を〈世界のなかにすでに投げ込まれてしまっているわれわれの経験〉の構造を明らかにすることを目的としたものとして読むのは、実は的外れなのではないかということだ。経験の話はあくまでもフッサールの手段でしかなく、ここでの彼の目的は、あくまでも現実性とか可能性とかいった様相をめぐる形而上学的問題に一定の回答を与えることにある(ようにしか見えない)。フッサール以降の現象学というのは、良くも悪くもフッサールが手段としたものを目的にしている傾向にあると思うのだけど、それはやはりフッサールにしてみたら倒錯的な展開なのではないだろうか。そう考えるとフッサールの分析がときに極端に図式的なことにも納得がいくのだけれども、ほとんど誰も賛成してくれない。