Meinong and Lewis on "impossibile" entities

  • Arkadiusz Chrudzimski, Gegenstandstheorie und Theorie der Intentionalität bei Alexius Meinong, 2007, ch. 8.
  • David Lewis, On the Plurality of Worlds, 1986, ch. 4.3.

19世紀後半以降の「極端な実在論」界における二大巨頭について調べもの。
といっても、いまマイノングの原著を読んでいると泥沼にハマるので、例によってフルヅィムスキにあたる。対象一般は存在を超え出ている außerseiendという主張の可能な解釈についての章。可能な解釈が、存在量化子の解釈の問題と存在汎化を妥当な規則と認めるかどうかの問題(の組み合せ)によって整理される。van Inwagenのような、「そもそもあなたがたの言っていることがわからないのです私には」という批判の仕方*1は、結局のところマイノング主義にとって一番強烈なんじゃないかとひそかに思っているのだけど、こうした「分からない」論法を単独で説得的に展開するのはなかなか大変だと思う。(マイノング主義批判の文脈に限らず、一般的にいって)「分からない」論法はだめ押しというしかたで他の議論と組み合わせて使われるから、それだけを詰めていくという路線は見たことないけど。マイノング主義は、考えつく他のすべての立場がうまくいかないと分かったときにはじめて選ぶべき最終手段だ、と個人的には思うけど、なぜマイノング主義のどこがまずいのかについて徹底的に考えることはとてつもなく重要なことだという直観のようなものがあるので、機会があったらきちんと考えたい。

続いて、ルイスの形而上学における不可能対象の位置づけを確認するために、貫世界的個体は不可能な個体であるという議論をしている箇所を読む。まず、xが可能的に存在すること possibly beingが、xがその中に全体として(ここが重要)存在するような可能世界が存在することとして定義される。次に、異なる世界に属する複数の個体のmereological sum(貫世界的個体とはまさにこういったsumの一種である)は、その全体が一つの世界のなかに存在することが定義上ないのだから、不可能的に存在する個体である、と論じられる。こうした議論の前提になっている無制限構成原理*2をなぜ認めるべきか、とかいろいろと議論は続くのだけど、とりあえずここまで分かれば十分。ルイスの形而上学には不可能な個体のための位置もあるが、そこで「不可能な個体」と呼ばれているのは、正十面体のようなものではない、と。ルイスによれば正十面体が存在しないというのは、まあ最初から分かっていた結論ではあるのだけど、本人の議論を追いながら確認できたので理解が深まったような気がする。それにしても、マイノングについていろいろ考えた後だとルイスが穏当に見えてしまうのは困ったものだ。

*1:たとえば、"Meta-Ontology"(1998)を参照。

*2:もう一つの前提は、もちろんあの素敵な(そして到底受け入れがたい)世界の複数性テーゼなんだけど、これはこの本全体を通じて擁護される主張なので、この文脈で特に重大なしかたで問題になるわけではない。