Husserl, Hua. XXVI

  • Edmund Husserl, Vorlesungen über Bedeutungslehre, chap. 1.

訳文を作りながら読む。『論研』第一研究をほとんどそのまま繰り返すような表現と指標の区別の話に続き、表現作用がもつ二重の構造をどうやって分析するべきかという話がだらだらと続く。
表現作用は、語の有意味な使用という作用であるかぎりで、表現(のトークンとしての語音)と何らかの仕方で関わるのだが、それが第一義的な仕方で関わっているのは、当該の表現によって意味されている対象である。こうした二重構造は、『論研』では共時的な基づけ関係(語音意識が意味志向を基づける)によって説明されていたのだけど、そのような説明は、後にライナッハによって批判されるように、いくつかの受け入れがたい帰結を導いてしまう。
で、フッサールは1913/14年の草稿でこの辺の問題についてかなり根本的なところから考え直すことになるのだけど、一番基本的な論点は、1908年のこの講義ですでに素描されている。一番のポイントは、作用と作用のあいだに成り立つ、いわば準因果的quasi-kausalな関係が、現象学的分析の中に大々的に導入されているということと、思念の充実ではなく、意志Willenの充実をモデルとした分析が示唆されていること。

表現作用の構造についての話そのものは、フッサール研究の中で周縁的なものに属するといっていいかもしれないが、この辺のちまちました話を丁寧に追っていくことは非常に重要で、そうした作業を積み重ねることではじめて、ふつう「静態的分析から発生的分析へ」と呼ばれる転回によって何が目指されてきたのかがはっきりする(はず)。フッサールが持っていたであろう大きなヴィジョンは、細かい話の背景としてのみきちんと理解できるし、フッサールの分析の細かい話についての込み入った話は、こうした大きなヴィジョンをつねに片目で睨んでおかないと、すぐにポイントのないつまらない読者に不必要な負担をかけるものになってしまう。フッサール研究者は特に後者の罠に嵌りがちだと思う。自戒を込めつつそんなことを考えながら訳していたら、えらく時間がかかってしまった。この章はとりわけ日本語に直しにくい。ともあれ、これでBedeutungslehreの本体はすべて訳したことになる。疲れた